昭和52年09月13日 朝の御理解
御理解 第46節
「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」
御道の信心を頂いて、段々おかげを頂いてまいります。本当にこの神様は不思議な神様じゃ。本当に有り難い神様だと、まぁ願うた事が成就して、皆がそう言う様になります。そういうおかげを頂き、繰り返しさせて頂きながら、いよいよ分からなければならないところは、この、今の46節だと思うですね。お願いをするもう本当に特別のおかげ。それこそ無から有が生じるという。助からんはずの者が助かったとか。
どうにも出来ない問題が、もうものの見事に、解決のおかげを頂いたと、もうそれこそ真実性をかぐほどしのおかげ。いうならそれを普通では奇跡的なおかげとこういうわけですけれども。そういう奇跡的なおかげというけれども、それは奇跡じゃない。信心しておかげのあるのは、まぁ当然のことなんだ。もしそういうお願いをして、おかげが受けられないなら、受けられない方が不思議なことじゃ、といわれるほどしの信心ですから、そういうおかげを頂きます。
でそういうおかげを頂きながら、いうなら日々の生活の上にです、今まで気が付かなかった。いうならば表面に出ておるおかげ、なら素晴らしい見事、誰でもおかげといわなければおられないというほどしのおかげ。そういうおかげを頂きながら、それは唯氷山の一角であって、そのね目に見えない所のおかげというのは、その数十倍もあるごたる。その数十倍も、もっと以上ありましょう。そのおかげを一つ一つ細やかに、自分の心に感じ取らさせて貰える。本当におかげの中にある事が分からせて貰えれる。
そういうおかげが分かっていくと言う事が金光様の、私はご信者の、ご信心ぶりでなからなければならないと思うんです。痛いのが治った。はぁもう本当に奇跡的なことじゃと。が有り難いのではない、「いつもまめなのが有り難いのぞ」と。もう平穏無事であるとか、自分の気づかないところに、本当に信心させて頂いておれば「目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い」とおおせられる。
その多いおかげに気付かせて頂く時に、有り難いという心はいよいよ募り、勿体無いという思いはいよいよ深いものになっていくのです。そこに真の信心者の、私は生き姿というものがあると思うんです。昨日ビリグイから手紙がまいりました。公子さんが安産のおかげを頂いた、電報でもう先日からお届けがあっとったが、その電報と一緒に出した手紙が、昨日まいっております。読んでみましょう。
「拝啓、親先生おかげを頂きまして有り難うございました。9月2日午前10時10分、無事男の子が安産のおかげを頂きました。この時間丁度私が御結界奉仕をさせて頂いておりましたら、沢山のねぎのお供えがありました。そのねぎを神様にお供えして、お礼を申しておりましたら、親先生のご修行中に、鶏の声を聞かれたお話を思い出しました。」これは、あの愛子が生まれました時に、私が善導寺の教会にお届けにまいりまして、お届けをさせて頂きましたら、ここにそのあのカレンダーがありますね。
お道の。あれにそのお産の御理解でした。はぁおかげ頂くなぁと思うて、ご祈念させていただいておりましたら、あの、丁度ときならない時に、朝のあのコケコッコウという、鶏の声を聞いたことがある。その時間を見ましたら、私がお願いにでて、もう逆産で大体は大変なでしたけれども、丁度私が北京におります時分に、かかっておった産婆さん達夫婦が前の晩から大分から遊びにやってきたんです。してまだ生まれとらんじゃったの。もう私が来たけん大丈夫ばいと言うてくれる。
この人も逆産専門といわれる産婆さんでした。それでまぁ産気づきましたから直ぐお願いに出ました。お願いに出ました、そう言う様に丁度その日が、お産の事の御理解がカレンダーに出ておるしそして丁度私がまだ、神様から色々お知らせを頂くという時代じゃございませんから。北京から帰った直後ですから。ほんなもう直ぐですからね、それであのご祈念させて貰いよりましたら、その今頃どうしてこげな鶏の鳴き声がするだろうかと思うたけども、はぁこれがお知らせというのかもしれんと思いましてね。
時計を見たら何時何分です。私がお届けして帰って来ましたらその、永井という方でしたけれど、その産婆さんのご主人がもう私を迎えに出てきておりました。そしてからこうこう手を振ってから生まれた生まれたちいいよる。それがその何時何分安産のおかげじゃった。もうそれが逆産てんなんてんちゅうことない、もうそれこそまぁスムーズな、それこそ隣知らずの安産だっという訳なんです。それが丁度その鶏の鳴き声を聞いた時が、それこそオギャといって生まれた時間と一緒だった。
その話をここに今書いてあるでしょうね。「親先生の御修行中に、ニワトリの声を聞かれたお話しを思い出しました。時計を見たら10時10分でした。公子が病院へ行ったのが、9時40分か、50分だったでしょうか。昨夜から少し陣痛のような痛みを、感ずると申しておりました。病院に行く時もこういう痛みが、3日3晩続いてもっともっと厳しい痛みがこなければ、赤ちゃんは生まれないといって病院に行きました。
ですからそんなに早く生まれるはずはないと思っておりましたら、病院へ行って10分もしないうちに生まれたと言う事でした。親先生。親奥様そして、日本の沢山の人達のお祈りを受けたればこその、それこそ隣り知らずの安産の見本を頂いたようでした。有り難く、厚く御礼を申し上げます。様子を見に行かれた新田さんが言われますのに、公子もこういう楽なお産がかつてなかったそうです。
赤ちゃんも大きく3千3百グラムあったそうです。最初から、最初掛かり付けの笠原先生の所へ、新田さんが行かれたら旅行中で、2、3日は帰ってこられないと言う事でした。それを聞いたジュリー〔あちらの方でしょうね〕ジュリーさんといわれる外人さんが、イエ姉さんと二人で直ぐ来てくれて、それこそ親も及ばん親身な世話をしてくれ、その人の親戚の病院へ直ぐ連れていってくれました。
二人とも毎日熱心に参ってこられる方達ですから、公子も安心してお任せが出来、病院へ行ったら、同室の人がここの総代をしておられる、多田さんの子供さんと近所の日本人の方でした。付き添いの者付き添いの看護婦さんが、やはり日本人の方で何から何まで万事に行届いたおおみかげを蒙り、只々親先生のおかげ親奥様のおかげです。有り難うございました。新田さんの話では、公子は明日にでも退院して良いというくらい元気におかげを頂いておるそうです。
生まれた子供が、どうか南米ブラジル国における取次ぎ者として闇の世界から、光、光明の世界へ、変わらせて頂くための表に立たせて頂くような氏子におとり立て下さいませ。手紙と一緒に電報を打たせて頂きます。お名前をお願い致しますお願い申します。親先生おかげを頂きまして有り難うございました。厚く厚く御礼を申し上げます。どうかブラジル国の平和と繁栄をお願い申します。有り難うございました。合掌。」
とございます。皆さんお聞きになってから、どういう風にお感じになったでしょうか。万事万端神様の御守護の中に、お繰り合わせの中に、まぁ安産のおかげを頂いておるわけです。昨日私はここへ参りまして、ある方が参って来たから今ブラジルから、あの手紙がきたというて見せました。そしたら何かもの足らんごたる顔してしとりますもん。それがもう何時も、いうならばそれこそ奇抜なというかね。
それこそ[痛いのが治ったのが有り難いのではない。何時もまめなのが有り難い]とおおせられるその、痛いのが治ったというね、死人が蘇ったとか、もう手の平をかやすようにとか、それこそ全然言葉の分からない、外人さんがこうこう、不思議なおかげを頂いたと言った様な話しが何時も、その手紙にあるからそう期待して読んだわけです。所がなん只々安産なおかげか、と言った様な顔なんですよ。いうならばですね、私はそのおかげの不感症になっておると言う事なんです。お互いが。
読ませて頂いて、皆さんもお聞きになったように、本当に万事万端、それこそ掛り付けの日本人のお医者さんは、丁度2、3日旅行中であった。そこに毎日参ってくるご信者さんが参ってきてから、それなら私の方の親戚に病院がありますから、そこへ連れて行きましょうといった。そしてそこでいったらもう十分もしないうちに生まれた。しかもそこの付き添いさんは、日本人の方であった。又そこに一緒に同室のひとは、総代さんの子供さんであった。
もう何から、もう外人さん達ばかりの中にあっても、そういう例えばお繰り合わせの中に、もう本当に先のことどん心配することはいらん。このように神様がご守護の中に、おかげを下さる。こういうお繰り合わせというものの中に、お互い日々あらなければなりませんし、又あるわけです。いうならあの合楽で申します、本当に素晴らしいタイミングの中に、日々お繰り合わせを頂いておる。
それは中には痛い事も、痒い事もありゃ、腹の立つ事もありゃ、イライラする様な事もあるけれども、それが又なんとも言えん、思えば思うほどお都合お繰り合わせの中にあることが段々分かってくる。不平ども不足どもいうだんの事じゃない。それこそお礼申させて頂かなければおられない事の中にあるけれども、それが何かね切って切って継いだようなおかげでなからなければ、おかげじゃないような思い方がいつの間にかです、本当に合楽で毎日毎日、こういう御理解を頂いておる人達は羨ましいと。
例えば遠方から参ってくる方達が申しますけれども、ならそういう方達でも、なら毎日頂いておりますと、例えば美味しい物が美味しゅうなくなって、おかげをおかげと感じれれる、いわゆる有り難いの不感症になってしまうと言う様な、所謂マンネリになるわけです。この辺の所が、信心させて頂く者がです、何時もいうならばさらな信心。絶えずおかげをおかげとキャッチ出来れる、いわゆる感じれれると言う事ね。おかげをおかげと感じれれる信心を頂かなければならない。
46節。四十と言う事は何時もと言う事。六と言う事はお徳とここではいわれるから、いつでもお徳の頂けれる場に私共はあるのですけれども、その生々しい瑞々しいまでの有り難いが、まぁ神様のこういうご守護の中にあるんだなぁと、いわゆる今の公子先生がね、陣痛が始まった病院へいったと、あれ如何にも手違い手違いのようにあるけれども、手違いではなくて、それがよりおかげになっておるというその事実なんです。
そういうご守護の中にあるんだということをね、それこそ昨日見せましたその、それこそ何かもう、はぁビリグイからから今日は手紙ならもう、はぁち言う様なその、じゃろうとこう思うて見たわけです。そしたらただ公子先生が安産のおかげを頂いたというだけじゃったけん、何かこうこうもの足らんごたる風な顔して、はぁおかげ頂かれましたなぁて、言うかと思うたらいわんもん。
で私の方が申しましたら、ほんなこつですの、ちこう言うぐらいな事です。これがだからもし自分の事になったら、尚更かも分かりません。もう妊娠のおかげを頂いた、10月10日すりゃ生まれる。その生まれるのがもう当たり前のように。私共合楽に御神縁を頂く者は、そういういわば皆が同じ祈りの中にあるのですから、そういうおかげを、もう自分の周辺に沢山頂きよるはずです。
それをならおかげと頂きとめきらん所に、有り難いというものもこういうならば月の字に、ほすという字のような格好になって、心がいわゆる白々しゅう、乾ききったような状態ですからおかげになりません。本当におかげをおかげと実感してそして信心が進められてまいりませんとね、昨日私あるご信者の事の、あるご信者あるここの方からそのその人の悪口を言うという意味じゃないですけれども、お届けがあったんです。
もう本当にちっとばっかりおかげ頂いて、この人もちょこっとお金ば握るともう、直ぐ贅沢になる人です。そして我儘になるんです。その人の私聞きよってから、本当に本当におかげを頂かなければ出来んのに、本当に困ったことの、すとその人がそういう風になりますと今度は周囲の人が大変怪我をするんです。そしたら神様から私頂きますことがね、あの、あのほうれん草のお知らせのね、いうならば邪魔になるようなものは、積み切るぞというお知らせを頂きましたよ。
私はだからその周辺の、その人の周囲の人達にです、あんその人のおかげで、皆あんただん信心ができるじゃんのとこう、まぁ言いもする、思いもしておりましたけれどもね。あんまりいうならば神様の完成されようとしておる事の、邪魔になるような生き方をするとです、やはり枯れ葉であったりヒゲやらじゃけんで、もうそげんとは神様が摘みきって行きなさいますよ。だからつみ切られた。
神様が摘みきんなさると言う事ですから、そりゃもうこらえにこらえ、それこそ教祖様のみ教えの中にもありますように、親戚の方が方なんですね。それがもうそれこそ、あいそんこそんなかような顔しておられた。そのことのことをお伝記にもね、もう「見限りた女」といっておられますね。もうだから教祖様すらが見限った女と仰るのですからね。もういよいよ、いうならば、人に信心させるための、人のようだね。例えば八汐ごたるとか、岩藤んごたるとかというとが、やはりおりますけれども。
その上もう自分の贅沢のためにはもう、あの平気であのまぁ人を使うというか。そういう例えばあり方の、本当にまぁその人のおかげで、まぁ周囲のもんが信心が出来るばってん、けどもまぁ困ったこっちゃあるのや、ちいうちからあんまぁその方と話しよりましたら、そのつみ切ると言う事を頂くんです。だからつみ切られちゃ大変だからと思うて、又改めてお願いさせて頂いたんですけれども、本当に改まらせてもらう。そこからね本当に、もうこげな、贅沢どんされる自分じゃない。
自覚が出来てです、そこからなら有り難い信心になって参りません事にはね、それには、例えば痛いのが治る。お願いしとったのが、成就した事だけがおかげじゃない。「何時もまめなのが有り難いのぞ」と、もういうならば目に見えないおかげの世界を、少しでも分からせて頂いてです、もう確かにりそうですもんね。「痛いのが治ったのが有り難いではない。何時もまめなのが有り難い」そのまめな有り難いと言う事に、もう心の底から有り難いが、本当に勿体無いが出てくるような信心を頂きませんとね。
信心の本当の有り難さとか、本当の信心生活は出来ません。というてなら今度は尻に火がつくごとなると、やっぱお願いに出てくるです、その人もだからそれも繰り返し、繰り返し十何年ももう続いておられますから、おかげは頂くけれどもです、それが人の信心の邪魔に成る様な事になって参りますとですね、言うならばほうれん草の枯れ葉に見立てられたり、又はヒゲん所に見たりでするならば、いかに成り行きを大事にというても、これは、もう何もかにも頂かんならんちゅう事じゃないですから。
ここは頂かれんと言う所はつみ切っていけと神様が仰るように、そのこっちがつみ切るのじゃない、神様から摘みきられる様な事になったら大変です。私共をここんところをですよく、そこまでそんな極端な事はないに致しましても、瑞々しい有り難いというものがかけて参っております時には、おかげを頂いておかげの中に浸っておっても、おかげをおかげと感じきらない。いうならばおかげの不感症になってしまっておる。
が怖いただ今、末永先生の手紙を読んでからね、ただほう安産なおかげ頂きなさったばいのと、言う程度に聞きとめた人は、もう大体不感症になっとる人です。神様の働きちゃもう間違いないなというところが幾箇所もありますよね。本当に神様のおかげちゃ本当に恐れ入るねという風に頂けた人は、まだまだなら、まだまだだじゃない。瑞々しい信心が今できとりなさるというていいじゃないでしょうか。
ただおかげ話しちゅうなら、もうそれこそ無から有が生じるようなおかげを頂かなければ、もうおかげと感じきらないようになったんではです、特になら合楽の場合はそういうおかげが続いておりますから、不感症になりがちないうなら、まぁ面がございます。しかもね四十何時も何時もが、おかげを頂けれる、いうならば有り難い心というものがです、本当にあれもおかげこれもおかげと、おかげおかげと本当に実感出来れるようなおかげを頂いて、有り難いというその心にです。
今いうお徳の頂けれる受け物が出来ていくのでございますから。本当に何時もまめなと言う事は平穏無事。いうならばおかげの中に浸っておる時に、浸っておる所のおかげを感じさせて頂けれるような信心を頂きたいもんです。それにはどうでも私共がです、絶えず自分の心の中に瑞々しい有り難さを願い、求めてからの信心。そこには必ず正確な修行がなされる。心行がなされる。そこに今まで気が付かなかったところ、いうならば目に見えなかったところに、あれもおかげであった是もおかげであったと。
おかげの中に浸っておってもです、もう本当にそうなんです。一つもおかげじゃないような感じがする。なら例えばなら合楽教会なら合楽教会で修行いたしております、大体もう本当に、お恵みの中に浸っておるわけです。これはなら合楽教会だけのことじゃない。皆さんでもそうです。おかげの中に、お恵みの中に浸っておるのです。そのひたっておる実感。水の中に手をつけて、冷たいとこう思ったり、暖かいと思ったり、するようなその実感がおかげなんです。
それにいくら御理解を頂いても、又ご祈念をしても心から有り難いものが湧いてこない。それこそこうしてお話をしとっても、途中でお話を止めたいごと、白々しい顔を、もう表情にでますからね。をしておったり。それこそいうならこういう神様の間違いない働きの中に、なら安産のおかげを頂いたという手紙を見せても、何かそれだけじゃもの足らんごたるいうなら、風をしておるというのなんかも、愈々もってそれこそ神様につみきられる、まず前提と思うて、本気で一つ信心させて貰わなきゃいけんと思うですね。
どうぞ。